牛乳入りペンギンの図書通信

読んだ本の話と、本を読むことの話をしています。牛乳入りペンギンは杉田抱僕でもあります。

【感想】宇佐見りん『推し、燃ゆ』

 

 

書き出しが「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」の芥川賞受賞作ということで、推しがいる身として前から気になっていました。

実際に読んでみて、推しがいる仲間として主人公に共感することはなかったのですが、没入感がすごかったです。主人公に共感しなくても、“推すこと”を取り巻く空気に対する共感というか、自分と主人公の周りにある空気が地続きだという感覚が強かった。“ああ自分のいる界隈にもこういう雰囲気あるなぁ”という。

推しという言葉に馴染みがあって、かつ、“推しが好き”とは別に“推すこと”を楽しんでいる(と言う自覚がある)人は、きっと自分と同じで共感はしなくても自分事として読まされるんじゃないかなと思いましたがどうでしょう。

(なお主人公の推しはアイドル、自分の推しは二次元キャラクターのことが多いです)

またそもそも“推し”概念がその読者の中にどれくらい根付いているかで読み味が変わりそうだなと思うので、その差も気になるところです。

 

ただ物語のテーマが推しなのかというと違うなという感覚もあって、物語の中心にあるのは“生きること”とか“生き延びること”だと思いました。生活として成り立つ以前の“生きること”。そこに推しがどうしようもなく関与しているのがこの主人公(や自分)の場合で、このお話をすごく大雑把にまとめるなら「推しが燃えるという異常事態が起きたとき、自分の“生きること”にどんな影響があるのか」ということになるんじゃないかなと。

けれど「推しの炎上とともに主人公の“生きること”が崩れていく」と単純にまとめられないのは、そもそも主人公の“生きること”は推しの炎上以前に崩壊気味(推しが燃えなくてもいずれ崩壊したんじゃないか)で、でもやっぱり主人公の“生きること”の真ん中には推しがいて、推しの炎上によって決定打を受けたことは確かなんだよなぁ、という入り組んだ因果関係を感じるからです。

その一方的な一蓮托生具合の複雑さを面白いと言ってしまうと乱暴すぎるし、考えさせられたと言うのも単純化しすぎていると思いますが、どうにかここを言語化するなら、主人公/自分/自分の周りのオタク仲間それぞれについて思いを馳せてしまった……というのが一番近いかもしれないです。推しがいることでそれぞれの“生きること”の形はどんな影響を受けているんだろう、という想像の出発点になった。

 

推しがいることと生きることについて(自分に推しがいるからかもしれませんが)、普段はポジティブな側面が耳に入ってくることが多いです(劇団雌猫さんとか、丹羽庭トクサツガガガ』を思い出しています)。実際、推しがいて毎日楽しいなと感じるのは確かです。推しができることで、世界の中に興味があるもの/好きな物が急激に増えるので(推しのイメージカラーとか好物とか趣味とか)。

けれど推しがいることがポジティブオンリーかというと、そうではないはずなんですよね。たとえば“推すこと”にかける時間とお金について、推しに限らず程度問題といえばその通りですが、推すときはケチケチせず思い切り使うことが良いという雰囲気をまま感じるので、独特の危うさがあるなと思います。コストで愛を示したり、コストをかけること自体を楽しむ土壌があるからこそ、たとえば劇団雌猫『浪費図鑑』が成り立つ側面があるだろうな……とか(『浪費図鑑』は推しに金をありったけ使うべきだ!と主張する本ではありませんのでそこは注意が必要ですが)。

 

このあたりを踏まえて、ではこの作品が“推すこと”を取り巻く何かへの警鐘になっているのかというとそういう感じでもなくて、ただ“推しを推すってポジティブな面もそうでない面もあるし、それはそれとして生きるうえで推すこと以外の部分もあるよね”という、言葉に直せば当たり前のことをあらためて見せてもらった気持ちでいます。

加えて主人公は“生きること”がままなっておらず、推しのおかげでそれが立ちゆく部分もあれば、一方で推し以前に成り立たせなきゃいけないこと(稼いだり暮らしたり)があるんじゃないのと読んでいて思うこともあって、ついうーんと唸りたくなります。食わなきゃ生きていけないし生きていなきゃ推せないけど、推しがいなくちゃ生きていけないっていうなら、どうしたらいいんだろうね。

 

最後に、読んでいて「あ、」と思ったことが一つ。

物語導入の炎上騒動(推しアイドルがファンを殴ったらしいこと)について、実際にそのアイドルが殴ったのか殴っていないのか、またどんな背景があったのかは特に明かされないまま物語は終わります。読了後そういえば実際のところどうだったんだろうと思い、それから、ああ主人公にとってそこは重要ではなく、“炎上したこと”だけが関心事だったから言及がなかったんじゃないかなと思いました。

それがファン倫理に照らしてどうかという思いもありますが、ああこの主人公にとっては推しが殴っていてもいなくても、そこにどんな理由や背景があってもなくても“推し”なんだな、そういう形で推してるんだなという納得感がありました。

全編かけて主人公の生き様と推し様を見せてもらったお話でした。

「本の話をする場所」の話

読書ブログを作りたいな、とずっと思っていました。ブログではなくてもいいのだけど、読んだ本や読みたい本、本を読むことの話をする場所が欲しいなあと。

そう思って作ったのがこのブログで、これから以下の内容を投稿していく予定です。

 

▼読んだ本の感想(これから読む人向け/もう読んだ人向け)

▼読書にまつわるよもやま話

▼短歌の話

 

このうち「読書にまつわるよもやま話」の一つめとして、自分の「本の話をする場所」について書こうと思います。

 

自分はブログやフリーペーパーなど、いくつかの「本の話をする場所」を居場所にしてきました。自分で作ったものもあれば、すでにあった場所に参加させてもらったこともあります。本が好きで、好きな本を人にすすめることやそのための文章を書くことも好きだったので、そうした居場所があることはいつだって嬉しいことでした。

そんななかでも“居場所”になった経緯として印象深いのが高校時代の図書委員です。

 

入学した時点で母校には図書委員というものはありませんでした(図書室の運営や管理は司書の方がしていました)。なかったのですが、国語の先生に「図書委員やらない?」と声をかけられて図書委員になりました。「杉田さん本好きでしょう。図書通信とか作らない?」と。

 

母校は中高一貫校で、国語の先生には中学時代にも授業を持ってもらっていました。だから自分が読書好きだということも、何となしに伝わっていたのかもしれません。にしても、図書委員(図書通信)を立ち上げるほどの何かが自分や、自分とその先生との間にあったような記憶はなくて、どうしてだったんだろうと思います。もしかしたら先生が図書通信を発行したくてダシにされたのかもなぁと、いま振り返ればそんな気がしなくもないような。

ただどんな思惑があったにしろなかったにしろ、先生からの誘いは嬉しかったし、今でも嬉しく思っています。あるいは今のほうが、より嬉しく思っているかもしれません。

本が好きだという自分の気持ちを知ってくれている人がいる、本が好きだという自分の言葉を聞いてくれていた人がいるということは、本当に嬉しいことだと、今あらためて思います。そして、ここをあなたの居場所にしなさいと差し出してもらえたことが重ねて嬉しかったのです。

 

そこから時は流れ、大学卒業と同時に、自分にとっての「本の話をする場所」がなくなりました。本の話を出来る相手はいるけれど、文章を書いて発表する場所はない。じゃあ自分で作るか……と思いつつズルズルしつづけて、ようやく今に至ります。

 

居場所を作るのは久しぶりで、少し怖いなという気持ちもあります。

見てくれる人がいるのかなとか、トラブル起こさないかなとか、飽きないかなとか。“入る”ときにはなかった怖さが“作る”ことにはあると、つくづく思います。けれど居場所を作ってくれたあの先生はここにはいないので。そしてあの先生が自分の「本が好きだ!」という声を聞いて、受け取って、新しい場所までくれた記憶があるので。とりあえずやってみますかと踏み出す一歩めとしてこの文章を書いています。

この新しい図書通信が誰かの手元に届いて、楽しんでもらえますよう。